代表の挨拶|久世工業株式会社|岐阜市の内装・外装リフォーム

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情熱や感動を
忘れていた息子が
紆余屈折を経て
たどりついた確信とは

岐阜で生まれ

工作好きだった幼少時代

0歳の頃

私は岐阜市黒野にて、建設業と製材を家業とする家の二男坊として生まれました。

小さい頃は祖父と父が営む製材工場兼事務所を頻繁に訪れていたので、作業中の大工さんやスタッフの方と仲良くなり、工場の中を興味津々で探検したりとよく遊んでいました。

5歳の頃

製材工場と倉庫には、注文住宅に必要な材料が全部揃っています。
夏休みになるとその中を1人で捜しまわり、宿題の工作に使えそうな木材や建材を持ち出しては、家の土間を散らかし放題にして、期日ぎりぎりまで木で作った船やミニサイズの家を拵えたりしていました。手先は不器用でしたが、まわりの友達より簡単に工作材料が調達でき、自分のペースで好きなものを作れることに喜びを感じていました。
そういった姿を見た祖父や父親には、「お兄ちゃんより、お前の方がうちの仕事に向いているな」と言われていました。

家族のように身近にいた工場や事務所で働く人たちからも「二男坊主が跡を継ぐ」「跡取り息子」と事あるごとに言われるようになり、その頃から漠然と「俺が跡取りで家業を継ぐ」という思いを持つようになりました。

レールの引かれた人生は嫌だ

しかし中学・高校と進んでいくうちに、「なぜ俺が家業を継がなければならないのか」「自分の進路は自分で決めたい」と反発するようになっていました。頑固で気難しい父親とは反りが合わず、成長するにつれ会話もほとんどしなくなりました。
幼い頃から身近にあった木材と建設業には、親への反発心から興味を抱かなくなってしまい「親にレールを引かれた進路になぜ進まなきゃならないの」という思いを強く持つようになっていました。

だからといって将来の夢や就業への希望があるわけでもなく、大学受験も失敗。ブラブラするのも性に合わない事も有り、とりあえず収入を得ようと流されるまま家業に就きました。

レールの引かれた人生は嫌だ

社会に出て

父親との衝突

なんの技術も経験もない私は、仕事を覚えるために現場監督の見習いとして建築資材を現場に運んだり、道具を使った作業をやったり、足場を組み立てたり、土やコンクリートを一輪車で運んだりと様々な作業をしました。しかし、ただ目の前にせざるを得ない事を淡々とこなす日々で、この仕事に魅力を感じることはありませんでした。
数年間現場で実務経験を積んだものの、流されるがまま家業に進んだことや、一緒に働く職人さんや協力会社の方に「こいつは息子だからいずれ社長になるだろう」と色眼鏡で見られている毎日に嫌気がさしていました。

その結果、私は父親に「俺にはこの仕事が向いていない。継ぎたくない。別の仕事がしたい」と告げたのです。

父はそれまでの私の態度を見て悟っていたのか
「わかった。もういい。お前はあてにしない」とだけ言いました。

そのときの表情は本当に寂しそうで、こんな顔を見たのは生まれて初めてでした。

家では冗談ひとつ言わない、晩酌もしない、会話といえばお説教のような堅い話ばかりで、人前では絶対弱みを見せない父親が初めて見せた表情が何故か頭にこびりついてしまい

「俺の人生は一体誰の為にあるのか?親の為?」
「期待に沿えないなら、いっそのこと、親子関係を断絶して飛び出した方がいいのではないか」
「こんな状況をだらだら続けてよいものか」

という思いが交じり、将来への不安がますます高まっていました。
心の中ではそう思っていても、何も行動を起こさない自分自身に苛立ち、お酒で憂さを晴らす日々が続きました。

この生き様でよいのか

そんなとき、知人から自己研鑽の研修会に誘われました。
その知人は毎日生き生きとし、何がそうさせているのかと思うくらいエネルギッシュ。

「俺がなりたい本当の姿はこれなんだ。自己研鑽を積んでこうなりたい

この一心で研修に飛び込みました。

「自分が望んで進んだ道ではないが、家業を継がせたい親を悲しませたくない」
「しかし今のままでは仕事に情熱が湧かない、この先どう進めばいいのかわからない」
内容も知らぬまま飛び込んだ研修過程の中で自分の心境を全部吐露し、ありったけの自分をさらけ出しました。

すると講師や一緒に参加していた方から

「今ある自分はすべてあなたが選択したもの。それを他人や親の責任にするのは甘ったれている証拠」
「親孝行というのは親の意向に沿って生きる事ではない。何をするにしても自立して立派にやっていくことではないのか」
「自分の立っている今の姿が本当に嫌だと思っているなら、とっくに辞めているはず

と厳しい言葉を散々浴びせられました。この時は本当に堪えました。

しかし、目標もないまま大した努力もせず、不平や不満ばかり吐きながら生きてきたひねくれた自分に気付きました。
初めてそのとき、今まで育ててくれた親への感謝や、知識も技術もなかった私が毎日元気に仕事ができる事の喜びを教わりました。

自分自身の殻から抜け出せた

研修に参加してからは、自分の中にあったわだかまりや迷い、親への反発がすっかり吹っ切れて、仕事をする事の意義ややりがいを感じるようになりました。

曲がりなりにも現場の経験を積む中で
「これからはスペシャリストよりもゼネラリストにならないといけない」
と考え、まず国家資格を取ろうと勉強し
建築施工管理技士、土木施工管理技士、宅地建物取引士の国家資格を取りました。
資格を取得する事で自信に繋がり、仕事に対する情熱と誇りが芽生えていきました。
知人から「最近顔付きが変わったね」と言われるようになったのはこの頃です。

ただ、楽しくなったとはいえ、まだまだ取引先やお客様のことを真剣に考えるレベルには到底達していませんでした。
日々目先の仕事をこなすだけの毎日で、設計通り、期日までに完成させることを何よりも優先させなければならないという考えにどつぷり浸かっていました。

注文住宅の上棟現場にいったある日のこと。
大工棟梁が醸し出す緊張感のある空気から「職人全員が家づくりに情熱を傾けている」ことが直接伝わってきました。傍らで見守っているお客様もきっと頼もしく感じていたに違いありません。

私も棟梁にはたくさん叱られましたが、今になって振り返ってみると、棟梁に家づくりに対する情熱があったからこそだと感じます。

心境の変化

棟梁の家づくりに対する信念

29歳のとき、結婚を機にマイホームを建てることになりました。仕事の延長で「1つの現場」「1つの物件」程度に考え、安易な計画でスタートさせました。

「ふたりが普通に生活できればいい」
「住宅ローンがきちんと返済できればいい」
「ローコストがいい」
という思いを優先して、素材も仕様も特にこだわりがなく家づくりは流れ作業のように進んでいきました。

自宅

私の家づくりをしてくれたのも先ほどの大工棟梁でした。普段は温厚で優しい方なのですが、仕事に対しては非常厳しい面がありました。長年培った知識と腕を頑なに通し、情熱が入りすぎて声を荒げて話をするので会社のスタッフからは恐れられていました。

ある日、そんな大工棟梁と現場で雑談をしたとき、こんな話を聞きました。

「わしはな、15歳で親方の弟子になって50年近くにもなった。
長年家づくりに携わってきたから注文住宅をたくさん建てさせてもらったわ。

だけど2軒だけ家族が幸せになれなかったところがある。それがな、2軒とも座敷の床の間が同じ配置になっていた。
だから今後建てる家で、もし床の間が同じ配置だったらいくらお施主様の要望であろうがわしは仕事を断る。

そりぁ単なる思い込みかも知れん。とにかくわしが建てた家で家族が不幸になるってのは耐えられんのや。
根っからの職人やから託された以上ええ仕事はする。ええ仕事とは 喜んでもらって住む人が幸せになってくれる その一言に尽きるんや

まさに衝撃的でした。

「いかなる理由があろうと、自分が建てた家に住む人は必ず幸せになってほしい」
という強い信念は仕事の質での 自己満足 だけではなかった。
人1倍職人としての誇りを持っていたのは腕だけではなかったんです。

家に住む人が家族のことを思い、真剣に家づくりに取り組んでいるからこそ、家を造る側も真剣にならなければ本当のいい家づくりはできない。

棟梁が放った言葉が私の心にドスンと突き刺さりしばらくは言葉が出なかった。

「図面通りに出来ていればいい」
「形になっていればいい」

今までの自分が恥ずかしくなり、なんでもっと早く気付かなかったのかと本当に後悔しました。
自分がマイホームを建てたことで、仕事に対する情熱がいかに大切であるかを学びました。

 

社長になってから気が付くことばかり

37歳のとき、代を受け継ぎ会社の代表、つまり社長に就任しました。

父から社長就任を言われたときは突然でしたのでピンときませんでしたが、「いずれは」と心の準備はできていました。
しかし4代目の社長としての重い責任と、予想をはるかに超える強烈なプレッシャーで毎日体中が張り詰めました。

ただひたすら目先のことだけに集中して社業に勤しむ、そんな日々が続きました。

38歳の頃

数年前、住宅新築の相談で出会って2~3度目のお客様から、唐突に
「もう、社長の会社にお願いするって決めてますから」
と言われたときの衝撃は今でも忘れません。

どこを気に入っていただいたのかとかはわかりません。
あまりにも唐突だったのでつい「何でですか?」と聞いたくらいです。

その時にお客様がおっしゃられたのは

「素材や工法は素人なので、多分いいんだろう くらいしかわかりません」
「決め手は人柄と会社の雰囲気
「建てた工務店が身近に長くあるという安心感

この3つでした。

驚いたと同時に 「絶対喜んでもらうんだ」 という気持ちで胸が一杯になりました。

打ち合わせから完成まで関わらせていただき、
最後の引き渡しでお客様の顔を見たとき、
それまで味わったことのない
「新居が完成した喜び」「家づくりが終わってしまう寂しさ」がこみ上げてきたのです。

この仕事をしていて本当によかったと思った瞬間でした。

私を信頼して一生に1度の家づくりを託してくれた人を、絶対に裏切る訳にはいきません。
試行錯誤しながら、たどり着いた答えがやっと確信となりました。

お客様から信頼して頂く事、ありがとうと言われる心地よさは本当にいいものです。

うちの会社では家造りばかりではなく、土木工事、建築工事、リフォーム工事と建設全般の業務をしていますが
どのお客様に対しても、私と関わった人すべてが幸せになって欲しいと願う気持ちはずっと続いています。

ありがとうひとすじ98年

これが弊社の経営理念です。

大正15年の創業以来、コツコツ続けてきました。
「仕事をしていてどんなときが1番うれしいか」とスタッフに聞いたところ、全員が「ありがとうと言われたとき」でした。

いいものを作るだけでよいのか。

要望に応えるだけでよいのか。

親切丁寧だけでよいのか。

これからもひたすらに積み上げていきたいと思っています。

追伸

社長

長年、岐阜市で地元の工務店として代々受け継いだ大切な思いはこれからも変わりません。

あなたと出会えて本当に良かった。

こういっていただけるのが私にとって最高の幸せを感じるときです。
素材、工法はもちろん、そして何よりも大切な『心』が伝わるような仕事をして、1つでも多くのありがとうがいただけるよう頑張ります。

社長サイン